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宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年(明治36年)12月9日 - 1991年(平成3年)1月19日)は、日本の官僚。第2代宮内庁長官。従二位勲一等旭日大綬章。 == 来歴・人物 == 京城中学校、麻布中学校、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部・法学部卒業。弘前高校への進学は父の『郷里に近い弘前へ行って校風を作れ』と命じられたことによるもので、同校第1回生である。 高等文官試験行政科試験合格後、1928年、内務省に入省し、栃木県内務部社会課長、同総務部庶務課長、内務大臣秘書官、鳥取県書記官・警察部長、内務書記官・国土局総務課長、同河川課長等を務める。戦後は1946年に東京都教育局長、1948年11月に初代の東京都教育長に就任し、1950年3月まで務めた。その後、東京都住宅協会専務理事。 田島道治初代宮内庁長官に口説かれ、1950年10月、宮内庁次長に就任する。田島長官の辞任後、吉田茂首相に請われ、1953年12月、第2代宮内庁長官に就任。1978年5月まで、25年間の長期にわたり在任した。これは歴代宮内庁長官(宮内大臣を含む)のうち最長の在任期間である。 皇太子妃美智子冊立にあたっては、皇室参与小泉信三慶應義塾大学塾長、鈴木菊男東宮大夫、黒木従達東宮侍従長、田島道治前長官と奔走した。その後も、義宮正仁親王、清宮貴子内親王の成婚、吹上御所、皇居宮殿の造営、昭和天皇と香淳皇后の訪米欧を実現するなどした。一方で天皇の政治利用に対しては徹底的にこれを退ける剛直な姿勢から、「頑固者」「堅物」などとも言われた。 1975年10月31日の日本記者クラブの際に昭和天皇が「この原子爆弾が投下されたことの対して遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと思います。」と述べた。この反響は大きく、抗議声明を出した広島県原水禁(森滝市郎代表委員)に対し宇佐美は補足として『天皇が原爆投下を肯定する意味あいのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、「''やむを得なかった''」のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい』と回答した〔ヒロシマの記憶1975年12月 〕。宮内庁は以後かなり取材などに対しては事前に厳しい措置をとるようになった。 1991年1月19日、87歳にて死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇佐美毅 (宮内庁長官)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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